私たちは偏った世界に生きている

調べればすぐに答えが見つかり、

興味がありそうな記事や写真で世の中が溢れています。

他の人も自分と同じような世界に生きていて、

同じようなものを食べて買って、同じようなものが好きだと疑わない。

実際にはとても偏った世界に生きているかもしれません。

何度も見る広告を知らない人もいる

ネットやテレビでも外でも、広告はあらゆるところにあります。

そして「最近よく見る広告」があると思います。

何度も見かけて面倒だなと思うこともあるでしょう。

広告はより良い効果を求めて、より良い効果を発揮できそうな場所や人に届けます。

特にネット上は今まで行動履歴から戦略的な広告を打ってきました。

(今後は個人情報の観点から変化があるでしょう)

そういった自分に最適化された広告は、他の人が見ていないこともよくあるのです。

興味がある情報だけが提供されている

広告もそうですがSNSやニュースも、興味がありそうなものが選別されてあなたに届けられます。

そのため、興味関心がない情報はあまり入ってきません。

それが世界であると、今の世の中であると錯覚していると感じています。

大きく報道されるものは興味関心がなくとも耳に入ってくるかもしれません。

しかし、自分好みの情報発信先だけであれば、似たような誰かの意見が混ざります。

事実と感想を分けて捉えるのはなかなか難しいです。

分断されていることを知る

このように、自分と同じような人々と繋がりやすくなりましたが、

そうでない人達との距離は遠くなるばかりに感じます。

似たような考えの仲間達といることは居心地が良いです。

しかし、それだけで良かったのでしょうか。

自分の世界は思った以上に狭くて、知らないことがもっともっと沢山あるかもしれません。

当たり前が当たり前ではない

持っている背景や知識が違うと、当たり前だと思っていることが通用しない時もあります。

同じ待遇をしてくれない場所もるでしょう。

会社内で肩書きを持っていても、コンビニに入れば沢山いるお客さんの一人です。

作業や対応の方法も、当たり前だと思っていたことも、

コミュニティーが変わると全く違う方法が当たり前かもしれません。

当たり前が当たり前ではないことは憤ることでもなく、

単純に「知らなかった世界」なのでしょう。

自分の軸をコミュニティーに置かない

自分はどこまで行っても自分だけであり、人生の主体となるのは自分です。

人生の責任を取るのも結局は自分です。

素晴らしい人、コミュニティーも沢山ありますが、

それらを軸にすることは自分を放棄しているのと似ています。

素晴らしい考え、元気が出るコミュニティーにいるのは、

なんだか自分も素晴らしい人間になったような気もします。

所属して活動することはとてもいいとだと思います。

ただ、意思決定や選択をしたり、自分の人生は自分を軸にして決めると

もっと世界が広がるのではないでしょうか。

私たちは偏った世界に生きている

私たちは思った以上に偏った世界で生きていそうです。

自分が知っている世界、世の中、常識、これらは全てではなく、本当に一部の一部で、

そこの範囲の中でしか生きていないのかもしれません。

それが良い悪いということではありません。

もし、もっと自分を高めていきたいと思うのであれば、この考えは役に立つと思います。

少しでも「偏った世界に生きている」という意識を持つと今日から世界が変わって見えるかもしれません。